V 臨床編 F 音楽と環境音の認知 1 HOME

音楽の認知と感覚性失音楽症

ぱじめに

 失音楽症(amusia)1) とは,脳の障害によって生じた音楽機能に関連したさまざまな障害を示す包括的な名称である。

失音楽症の研究は失語症の諸々の障害と関連させて論じられてきた1)。

Benton2) による失音楽症の分類によると,主として音楽の受容面の障害と,運動または表現面の障害に分けられる。

ここでは受容面の障害の中でも,音楽の認知障害,すなわち狭義の‘‘熟知しているメロディを聴覚的に同定できない状態’’をとりあげる。

a  脳と音楽 音楽の三大要素

 外国語がわからなくとも,その国の音楽は楽しむことができる。

チェリストのミッシヤー・マイスキーは 「音楽は,世界共通の言語である」 という。

このことは,言葉の受容は左半球の言語中枢であるが音楽は言語中枢だけでないことを示唆している。

音楽の‘‘音’’は分析すると,最小単位は音の三要素の,@高低,A強弱,H音色のほかに持続時間と,

音楽の三要素の,@旋律,Aリズム,B和声からなる。

これらを基礎に作曲されると,楽しい,悲しい,軽快,などの情緒が生まれる。

一方,言語音の‘‘音’’は‘‘音素”が最小単位である。

これは音声学の用語でいう音韻すなわち,/a/と/i/のような母音と/p/や/t/のような子音,/w/やパ/のような半母音をさす。

これらが組み合わさり,さらに意味と論理が与えられ言葉になる。

言語はコミュニケーションと思考の道具である。

音楽もコミュニケーションの役割をもつが,大きな役割は情緒や心を伝える道具でもあることである。

この言葉と音楽の違いは,それぞれの脳の局在性はどのように同じでかつ異なるのであろうか。

脳における音楽の局在性

 音楽の中枢は中世までは,耳の中にあると考えられていた。

ルネサンスから17世紀は,小脳が音楽知覚の部位と考えられていた。

18世紀になり骨相学者のGallは音楽家の‘‘頭の表面”と‘‘脳の表面’’の比較観察により,音楽は左の側頭部の部位32が責任部位と考えられた(図3−94)。

19世紀後半 Wernicke は両側上側頭葉損傷の患者が,どんな音も聴こえなくなることに気がついた。

同様の症例報告が続き音楽も含め,音の知覚中枢の局在に大きなヒントを与えることになった。

 20世紀の初期は症例の症状と剖検脳を比較する多数の研究が行われ,知覚が障害される場合を感覚性失音楽,

演奏や歌唱が障害される場合を運動性失音楽と呼ぶようになった。

臨床研究および nechsig の胎児・乳幼児の脳の髄鞘染色研究から,現在,我々が聴覚皮質中枢と知られる 41野 が同定された。

音楽の知覚障害は,この 41野 と Wernicke 中枢の 41野 の問の線維の損傷によって生じると報告された。

20世紀半ば,Penfield が局麻下の脳手術の際に,脳表を刺激し,患者に“何が聴こえるか’’問い,さまざまな音楽記憶がよみがえることを見出した。

その場所は 41野 とその周辺であった7)。

1960年代になり一般人や音楽家に音楽の dichotic listening test を行い音楽の優位半球をさぐる研究が行われた。

1970年代となり,CTスキャンさらに MRI の開発で,剖検をしなくとも脳の損傷部位の診断が可能となった。

感覚失音楽すなわち,音は聴こえるが音楽が聴こえない状態は今世紀初めの報告と同様,脳の局在病巣で生じるという報告が続いた。

画像診断は1990年代に入って,activation すなわち,音楽を聴く前後で MRI や PET を撮り,

脳内の血流や代謝の増大で機能の局在性を明らかにしようとする方法が始まり,

近年,音楽家や絶対音感 のある者などを対象とした報告が次々,有力雑誌に報告された。

しかし,その報告の評価にはまだ時間がかかるであろう。

生理学的な耳による音の創造と脳における音の創造

 音楽の領域で差音と呼ばれている,2つの音を与えたときにさまざまな異なる音に聴こえる現象 が知られている。

その差音の一つの 2fl−f2 という非線型的な数式であらわされる歪成分耳音響反射が反応として他覚的に記録ができるようになった。

外有毛細胞で創られ外耳道に放射される。

さらに4つの音を同時に与えるともう一つの音が聴こえる missing fundamentals という現象は,マスキングの効果はなく脳内で創られている。

このように複数の音が届くと蝸牛で新しい音が作られ,脳の中でも新しい音が作られる。

いずれも弱い音ではあるが,音楽はこのような音も一緒になって楽しまれるものであろう。

文化と音楽と脳

 我々は,学校の音楽教育の結果として西洋音階が,言葉にたとえると文法のような能力がすでに 脳に定着している。

すなわち,平均律の音階のことである。

明治の初期の日本人は,まだ西洋音階の経験がなく,西洋音楽は日本人にとって奇妙で退屈なものであった。

逆に現在は邦楽の音階を知らない世代が多く,邦楽の危機が叫ばれている。

ミッシヤー・マイスキーが 「音楽は世界共通の言語である」 と言うのは

世界の情報通信がグローバル化したために世界のどこの人々にも西洋音階の平均律が浸透したためであろう。

われわれも,西洋音階でない音階の音楽をきくと不思議な気分に襲われ,同時に細部まで聴きとれているのかわからない。